「お茶でもどうぞ」心の余裕を苼んで相手を観察する能力|【喫茶去】
「喫茶去」という禅の言葉があります
これは、中国の唐の時代に、ある禅僧のお坊さんが訪れてくる自分に教えを請いに訪れてくる人全ての人たちに「お茶を勧めた」というところから来ている言葉です。
「どうぞ、お茶でも召し上がってかないか」という言葉が「喫茶去」の意味です
この禅僧の人が、お茶を勧めたということは「心の余裕を持ちなさい」、誰にでもお茶を勧めるというのは「心の持ち、余裕を持ちなさい」というような意味で、現代には伝わっていたりしますし、様々なお坊さんの解釈があるんですけれども、私はこの「喫茶去」ということを日常生活、特に仕事で生かしていこうと思うのであれば、これは人と会い、接するとき、それがお客さんであったり取引先であったりとか、上司であったり部下であったりというときに、自分が話をしている相手という人間を見る「心の余裕」というふうにして解釈をしています。
どういう事かと言うと、私たちはどうしてもね、例えば仕事をしている、それで
「売上を上げたい」「この商品を売りたい」となると、この商品売るということ、それから「これで売上を上げたい」ということに、もし頭が行き過ぎていると、どうしてもこう
人が人と関わって、人と人との信頼関係の中で物が売れて行ったりとか、サービスというものが展開していったりするわけです
けども、これを無視して「自分が売りたい」「自分が売りたい」「自分が売りたい」、これは、心の余裕を失っている状態です。なので、そこに「ワンクッション」はさむ「ワンクッション」はさむ物は何か?「食事かお茶」ですよね
人間は、人と接するときに「食事をする」「お茶をちょっと飲む」ということによって、夲来の目的だけを見ている時よりも、余裕が生まれてきます。また、その自分が相手に対しての第一印象とか、それから相手に対しての偏見みたいなものを持ってしまって、人を見るということも起きてきたりします
だから、そこに「喫茶去」なんです。
「あっ、意外にお茶飲んでみたら、この人ね、一見怖そうな感じなんだけど、優しい人なんだな」
「あっ、意外にこの人、一見なんか、『自分は気に食わない』と思ってたタイプの人なんだけれども、とても愛情深い、思いやり深い、誠実な人なんだな」ということを感じたり、逆に一見とても爽やかな印象で「あっ、いいなぁ」 と 思ってたけれども、実は「何か、裏に腹黒いものがありそうだ」ということが見えたり、とにかくね、自分が「これを売りたい」、「あれを買ってほしい」あるいは「こうしてほしい」「こうなってほしい」、自分の思いが「強すぎる」がゆえに、焦って人と接してしまう
あるいは、自分が偏見を持っているがゆえに、その人の「本質」というものを見失ってしまった。そのようなことを避けるためにも「お茶を一杯いかがですか」「飲んでいかないですか?」「食事を一緒にしませんか」というこの「喫茶去」と言う「ワンクッション」が自分の心に余裕をもたらし、そして人間というものをきちんとその「夲質」を見るという時間と、空間と、心の余裕というものが生まれてくる
これが「喫茶去」の持つ「偉大な力」です。
現代の社会は非常に変化していくスピードが早いという時代です物事が進んでいくスピードが早いです。仕事もどんどんペースを進めていくどんどん、どんどん速くなっていって、人々の「心の余裕」を失ってしまう時代です。
「忙しい」という字は「心を失う」と書いて「忙しい」と書きます心を失ってしまったら、せっかくより良い結果をもたらそうとして動いていることが全部台無しになっていきます。人間は、物と物でつながっているわけじゃないです心と心で最終的につながっています。ですから、この「喫茶去」という事をビジネスの中に大いに生かしていただきたいその「喫茶去」というのは、自分が心の余裕を持って、そして落ち着いてその人間を見るという余裕です。
今日一日、仕事に向かうそして、勉強に向かう。そして、様々な自分の活動に向かって行くときに、ぜひ忙しい時こそこの「喫茶去」という心を忘れないで歩んでいただければ、またあそこから新しい素晴らしい世界が見えてくるのではないかと思います