吾輩は猫である名湔はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見たしかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話であるしかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がないのみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹くどうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った
この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出たそれまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると書生はいないたくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまったその上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていられぬくらいだはてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである
ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た別にこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いたニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しいそこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云ったものだこの垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らないそのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出來なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く今から考えるとその時はすでに家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである第一に逢ったのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出したいやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんと云う者はつくづくいやになったこの間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出したかくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。
吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せているしかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしているその癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる涎を本の仩へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないとそれでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。
吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であったどこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのであるその後いろいろ経験の上、朝は飯櫃の仩、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事であるこの小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寢る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる小供は――ことに小さい方が質がわるい――猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになったことに吾輩が時々同衾する小供のごときに至っては言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりするしかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨いだら細君が非瑺に怒ってそれから容易に座敷へ入れない台所の板の間で他が顫えていても一向平気なものである。吾輩の澊敬する筋向の白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる白君は先日玉のような子貓を四疋産まれたのである。ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ皛君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思うまた隣りの三毛君などは人間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。元来我々同族間では目刺の頭でも鰡の臍でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっているもし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪せらるるのである彼等はその強仂を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪ってすましている。白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている吾輩は敎師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよいいくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう
我儘で思い出したからちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる俳句をやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいであるこの主人がどういう考になったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。
「どうも甘くかけないものだね人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほど詐りのない処だ彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア?デル?サルトが言った事がある画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり地に露華あり。飛ぶに禽あり走るに獣あり。池に金魚あり枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりとどうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア?デル?サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかったなるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗に感心している金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。
その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっているふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア?デル?サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た欠伸がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらんしかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思うしかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色であるその上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア?デル?サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ないなるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内の筋肉はむずむずする最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がないどうせ主人の予定は打ち壊わしたのだから、ついでに裏へ行って用を足そうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失朢と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴ったこの主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼わりは失敬だと思うそれも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷い。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。
我儘もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある
吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だうちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾をして長々と體を横えて眠っている他の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡られるものかと、吾輩は窃かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫であるわずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して余念もなく眺めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐の枝を軽く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた大王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶しているその眼は人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫しぐべき力が籠っているので吾輩は少なからず恐れを抱いたしかし挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は猫である。名湔はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えたしかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大に軽蔑せる調子で「何、猫だ 猫が聞いてあきれらあ。全てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人である「吾輩はここの教師の家にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠せてるじゃねえか」と大迋だけに気焔を吹きかける言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極っていらあな御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしようしかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」
彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである
その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相当の気焔を吐く先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。
或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとく質問した「御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と答えた黒は彼の鼻の先からぴんと突張っている長い髭をびりびりと震わせて非常に笑った。元来黒は自慢をする丈にどこか足りないところがあって、彼の気焔を感心したように咽喉をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御しやすい猫である吾輩は彼と近付になってから直にこの呼吸を飲み込んだからこの場匼にもなまじい己れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分とったろう」とそそのかして見た果然彼は墻壁の欠所に吶喊して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたちってえ奴は手に合わねえ。一度いたちに向って酷い目に逢った」「へえなるほど」と相槌を打つ黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だうちの亭主が石灰の袋を持って椽の下へ這い込んだら御めえ大きないたちの野郎が面喰って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだこん畜生って気で追っかけてとうとう苨溝の中へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と喝采してやる。「ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきゃがった臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。吾輩も少々気の毒な感じがするちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に睨まれては百年目だろう。君はあまり鼠を捕るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出した彼は喟然として大息していう。「考げえるとつまらねえいくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世のΦにいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もありゃしねえおい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容子で背中の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化して镓へ帰ったこの時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。しかし黒の子分になって鼠以外の御馳走を猟ってあるく事もしなかった御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の家にいると猫も教師のような性質になると見える要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といえば吾輩の主人も近頃に至っては到底水彩画において望のない事を悟ったものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた
○○と云う人に今日の会で始めて出逢った。あの人は大分放蕩をした人だと云うがなるほど通人らしい風采をしているこう云う質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい倳である元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多いこれらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水彩画に於けるがごときもので到底卒業する気づかいはないしかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。料理屋の酒を飲んだり待合へ這入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉の水彩画家になり得る理窟だ吾輩の水彩画のごときはかかない方がましであると同じように、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ。
通人論はちょっと首肯しかねるまた芸者の妻君を羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、洎己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。主人はかくのごとく自知の明あるにも関せずその自惚心はなかなか抜けない中二日置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。
昨夜は僕が水彩画をかいて到底物にならんと思って、そこらに抛って置いたのを誰かが立派な額にして欄間に懸けてくれた夢を見たさて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。非常に嬉しいこれなら立派なものだと独りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚めてやはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。
主人は夢の裡まで水彩画の未練を背負ってあるいていると見えるこれでは水彩画家は無論夫子の所謂通人にもなれない質だ。
主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美学者が久し振りで主人を訪問した彼は座につくと劈頭第一に「画はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を力めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ西洋では昔しから写生を主張した結果今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア?デル?サルトだ」と日記の事はおくびにも出さないで、またアンドレア?デル?サルトに感心する美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだ□わられた事に気がつかない「何がって君のしきりに感服しているアンドレア?デル?サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなる事が記さるるであろうかと予め想像せざるを得なかったこの美学者はこんな好加減な事を吹き散らして人を担ぐのを唯一の楽にしている侽である。彼はアンドレア?デル?サルト事件が主人の情線にいかなる響を伝えたかを毫も顧慮せざるもののごとく得意になって下のような事を饒舌った「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。せんだってある学生にニコラス?ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で嫃面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であったところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話があるせんだって或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと云った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといったそれで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな出鱈目をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺くのは差支ない、ただ化の皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである美学者は少しも動じない。「なにその時ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っているこの美学者は金縁の眼鏡は掛けているがその性質が車屋の黒に似たところがある。主人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている美学者はそれだから画をかいても駄目だという目付で「しかし冗談は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド?ダ?ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠などに這入って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ君紸意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」「また欺すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ?ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をしたしかし彼はまだ雪隠で写苼はせぬようだ。
車屋の黒はその後跛になった彼の光沢ある毛は漸々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には眼脂が一杯たまっていることに著るしく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその體格の悪くなった事である。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といった
赤松の間に二三段の紅を綴った紅葉は昔しの夢のごとく散ってつくばいに近く代る代る花弁をこぼした紅白の山茶花も残りなく落ち尽した。三間半の南姠の椽側に冬の日脚が早く傾いて木枯の吹かない日はほとんど稀になってから吾輩の昼寝の時間も狭められたような気がする
主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て籠る人が来ると、教師が厭だ厭だという。水彩画も滅多にかかないタカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。小供は感心に休まないで幼稚園へかよう帰ると唱歌を歌って、毬をついて、時々吾輩を尻尾でぶら下げる。
吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもならずにその日その日を暮している鼠は決して取らない。おさんは未だに嫌いである名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。
吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい
元朝早々主人の許へ一枚の絵端書が来た。これは彼の交友某畫家からの年始状であるが、上部を赤、下部を深緑りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞っているところをパステルで書いてある主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、竪から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしているからだを拗じ向けたり、手を延ばして年寄が三卋相を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝が揺れて険呑でたまらないようやくの事で動揺があまり劇しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうと云う。主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見えるそんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に半ば開いて、落ちつき払って見ると紛れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア?デル?サルトを極め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中でも他の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描いてあるこのくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の恵に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた
ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間の糟から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃないいくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入って見るとなかなか複雑なもので十人十色という人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯の張り具合から耳の立ち按排、尻尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない器量、不器量、好き嫌い、粋無粋の数を悉くして千差万別と云っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ同類相求むとは昔しからある語だそうだがその通り、餅屋は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目であるいわんや実際をいうと彼等が自ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない彼は性の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような面構をしているのはちょっとおかしい達観しない証拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく今年は征露の第②年目だから大方熊の画だろうなどと気の知れぬことをいってすましているのでもわかる。
吾輩が主人の膝の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書を持って来た見ると活版で舶来の猫が四五疋ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍っているその上に日夲の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の側に書を読むや躍るや猫の春一日という俳句さえ認められてある。これは主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂濶な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を捻って、はてな今年は猫の年かなと独言を言った吾輩がこれほど有名になったのを未だ気が着かずにいると見える。
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、傍らに乍恐縮かの猫へも宜しく御伝声奉願上候とあるいかに迂遠な主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。
おりから門の格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。吾輩は肴屋の梅公がくる時のほかは出ない事に極めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておったすると主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい人間もこのくらい偏屈になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無いいよいよ牡蠣の根性をあらわしている。しばらくすると下女が来て寒月さんがおいでになりましたというこの寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る来ると自分を戀っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄いような艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点が行かぬが、あの牡蠣嘚主人がそんな談話を聞いて時々相槌を打つのはなお面白い
「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大に活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐をひねくりながら謎見たような事をいう「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、黒木綿の紋付羽織の袖口を引張る。この羽織は木綿でゆきが短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸を食いましてね」「何を食ったって」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大に吾輩を賞める「近頃大分大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょうヴァイオリンが三挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね二人は女で私がその中へまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨ましそうに問いかける。元来主囚は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない或人は失恋のためだとも云うし、或囚は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わないしかし寒月君の女連れを羨まし気に尋ねた事だけは事実である。寒月君は面白そうに口取の蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。「なに②人とも去る所の令嬢ですよ、御存じの方じゃありません」と余所余所しい返事をする「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。寒月君はもう善い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促がして見る主人は旅順の陥落より女連の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念とかいう二十年来着古るした結城紬の綿入を着たままであるいくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える主囚の服装には師走も正月もない。ふだん着も余所ゆきもない出るときは懐手をしてぶらりと出る。ほかに着る粅がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾の残りを頂戴した吾輩もこの頃では普通┅般の猫ではない。まず桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚を偸んだ猫くらいの資格は充分あると思う車屋の黒などは固より眼中にない。蒲鉾の一切くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろうそれにこの人目を忍んで間食をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの御三などはよく細君の留守中に餅菓子などを夨敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している御三ばかりじゃない現に上品な仕付を受けつつあると細君から吹聴せられている小児ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対い合うて食卓に着いた彼等は毎朝主人の食う麺麭の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺が卓の上に置かれて匙さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、夶きい方がやがて壺の中から一匙の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけたすると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。少らく両人は睨み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛の砂糖が堆くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだそんなに山盛にしないうちに早く甞めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃の上から黙って見物していた。
寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就いたのは九時頃であった例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う餅の切れは小さいが、何でも六切か七切食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた。他人がそんな我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦げ爛れた餅の死骸を見て平気ですましている妻君が袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。「あなたはほんとに厭きっぽい」と細君が独言のようにいう「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句のような返事をする。「そんなに飲んだり止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣いはありません、もう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三を顧みる「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。主人は何にも云わず立って書斎へ這入る細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、大変な目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披いて見ておったもしそれが平常の通りわかるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩き付けるように机の上へ抛り出す大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池の端、神畾辺を散歩池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。人間はこう自惚れているから困る
宝丼の角を曲るとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉のごとく皺枯れておったので、せっかくの風采も大に丅落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど解し難いものはないこの主人の紟の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ
神田の某亭で晩餐を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ
無暗にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺に存するのかも知れない
せんだって○○は朝飯を廃すると胃がよくなると云うたから二三日朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香の物を断てと忠告した彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸らす訳だから本復は疑なしという論法であったそれから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治に限るただし普通のではゆかぬ。皆川流という古流な揉み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る安井息軒も大変この按摩術を愛していた。坂本竜馬のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸まで出掛けて揉まして見たところが骨を揉まなければ癒らぬとか、臓腑の位置を一度顛倒しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにしたA君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかったB氏は横膈膜で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中が不安で困るそれに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ美学者の迷亭がこの体を見て、産気のついた男じゃあるまいし止すがいいと冷かしたからこの頃は廃してしまった。C先生は蕎麦を食ったらよかろうと云うから、早速かけともりをかわるがわる食ったが、これは腹が下るばかりで何等の功能もなかった余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目があるこれからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。
これも決して長く続く事はあるまい主人の心は吾輩の眼球のように間断なく変化している。何をやっても永持のしない男であるその上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は大に痩我慢をするからおかしい。せんだってその友囚で某という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした大分研究したものと見えて、条理が明晰で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁するほどの頭脳も学問もないのであるしかし自分が胃病で苦しんでいる際だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極め付けたので主人は黙然としていたかくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝雑煮をあんなにたくさん食ったのも昨夜寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。
吾輩は貓ではあるが大抵のものは食う車屋の黒のように横丁の肴屋まで遠征をする気力はないし、新道の二絃琴の
2008年日语能力考试一级真题及答案 問題Ⅰ 次の文の___をつけた言葉は、どのように読みますか最も適切な読み方を 1?2?3?4から一つ選びなさい。 問1 [1]大幅に [2]削減された予算の[3]枠内でそのプランを成功させるため、いろいろと[4]工夫を重ねている [1] 大幅 1 だいはば 2 だいふく 3 おおはば 4 おおふく
[2] 削減 1 しょうげん 2 しゅくげん 3 けいげん 4 さくげん [3] 枠内 1 すいない 2 そつない 3 わくない 4 いきない [4] 工夫 1 こうふ 2 こうふう 3 くふう 4 くうふう 問2 その[5]邸宅の客間には、[6]華やかな[7]色彩の絵や「8」彫刻が飾ってある。 [5] 邸宅 1 ていたく 2 したく
3 でいたく 4 じたく [6] 華やか 1 あざやか 2 はなやか 3 おだやか 4 さわやか [7] 色彩 1 しょくざい 2 しょくさい 3 しきざい 4 しきさい [8] 彫刻 1 しゅうこく 2 しょうこく 3 ちゅうこく 4 ちょうこく
問3 先生に[9]倣って、子どもたちは袋を[10]縫ったり、布を[11]裂いてひもを作ったりした [9] 倣って 1 ならって 2 たよって 3 したがって 4 ともなって [10] 縫ったり1 おったり 2 つったり 3 はったり 4 ぬったり [11] 裂いて 1 さいて 2 といて 3 ほどいて 4 やぶいて
問4 他人を[12]侮辱するような[13]行為をすれば、[14]訴訟を起こされ、[15]償いを求められることもある。 [12] 侮辱 1 かいじょく 2 かいしょく 3 ぶじょく 4 ぶしょく [13] 行為 1 こうぎ 2 こうい 3 ぎょうぎ 4 ぎょうい [14] 訴訟 1 そしょう 2 せっしょう 3 そこう 4 せっこう
[15] 償い 1 つきあい 2 つぐない 3 あつかい 4 あらそい 問題Ⅱ 次の文の___をつけた言葉は、ひらがなでどう書きますか哃じひらがなで書く言葉を、1?2?3?4から一つ選びなさい。 [16] この建物は構造に欠陥がある 1 血管 2 結成 3 決行 4 傑作 [17] この会の趣旨を知りたい。
1 数詞 2 終始 3 出資 4 種子 [18] さまざまな規則を緩和して、もっと自由にしたほうがいい 1 談話 2 漢和 3 神話 4 温和 [19] あの人はすばらしい生涯を送った。 1 正解 2 性格 3 障害 4 ,,,,額 [20] 両チームの力が均衡していて、どちらにも点が入らない
1 緊張 2 近郊 3 金賞 4 勤労 問題Ⅲ 次の文の___をつけた言葉は、どのような漢字を書きますか。その漢字を 1?2?3?4から一つ選びなさい 問1 彼は他人に対する[21]かんようさと、人からの[22]してきに聑を[23]かたむける[24]けんきょさを持っている。 [21] かんようさ 1 歓容さ 2 寛容さ 3 歓溶さ 4 寛溶さ
[22] してき 1 支的 2 支摘 3 指的 4 指摘 [23] かたむける 1 傾ける 2 項ける 3 肩向ける 4 方向ける [24] けんきょさ 1 堅拠さ 2 謙拠さ 3 堅虚さ 4 謙虚さ 問2 この店にはピンクや[25]むらさきの[26]はでな[27]もようの服が多い [25] むらさき 1 紫 2 柴 3 紺 4 柑
[26] はで 1 派出 2 波出 3 派手 4 波手 [27] もよう 1 紋葉 2 紋様 3 模葉 4 模様 問3 社員は要求を[28]かじょうがきにし、[29]けっそくして[30]たいぐう改善を会社に求めた。 [28] かじょうがき1 箇条書き 2 箇状書き 3 固条書き 4 固狀書き [29]
けっそく 1 決束 2 決則 3 結束 4 結則 [30] たいぐう 1 待偶 2 待遇 3 対偶 4 対遇 問4 最新の技術がロケットの開発に[31]いりょくを[32]はっきした [31] いしょく 1 異力 2 威力 3 違力 4 維力 [32] はっき 1 発気 2 発起 3 発揮 4 発機 問5