2020年生孩子怎么样は生きちゃいますね、なんぞと言える精神があればもっと早く仕事から逃げられたのに。それが
来源:蜘蛛抓取(WebSpider)
时间:2019-12-22 18:43
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20l9年可以生第三台
さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだいつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だいっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。
東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに丠の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない
足はだいぶ重くなっている。膨ら脛に小さい鉄の才槌を縛り附けたように足掻に骨が折れる袷の尻は無論端折ってある。その上洋袴下さえ穿いていないのだから不断なら競走でもできるが、こう松ばかりじゃ所詮敵わない。
掛茶屋がある葭簀の影から見ると粘土のへっついに、錆た茶釜が掛かっている。床几が二尺ばかり往来へ食み出した上から、二三足草鞋がぶら下がって、袢天だか、どてらだか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている
休もうかな、廃そうかなと、通り掛りに横目で覗き込んで見たら、例の袢天とどてらの中を行く男が突然こっちを向いた。煙草の脂で黒くなった歯を、厚い唇の間から出して笑っているこれはと少し気味が悪くなり掛ける途端に、向うの顔は急に真面目になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出っ喰したものと見えるともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間もなくまた気味が悪くなった男は真面目になった顔を真面目な場所に据えたまま、白眼の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額とじりじり頭の上へ登って行く。鳥咑帽の廂を跨いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降って来た今度は顔を素通りにして胸から臍のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口がある三十二銭這入っている。白い眼は久留米絣の上からこの蟇口を覘ったまま、木綿の兵児帯を乗り越してやっと股倉へ出た股倉から下にあるものは空脛ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食ッ附いちゃいないただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕が黒くついた俎下駄の台まで降って行った
こう書くと、何だか、長く一所に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否や急に茶店へ休むのが厭になったから、すたすた歩き出したつもりであるにもかかわらず、このつもりが少々覚束なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵えて、俎下駄を捩る間際には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものであるじりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついているがそれで滅法早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいであるそれにしても、ああ緩くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹冷かされて、さあ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙りますと立ち上ったようなものだこっちは馬鹿気ている。あっちは得意である
歩き出してから五六間の間は変に腹が立った。しかし不愉快は五六間ですぐ消えてしまったと思うとまた足が重くなった。――この足だもの何しろ鉄の才槌を雙方の足へ縛り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出来ないはずだ。あの白い眼にじりじりやられたのも、満更持前の半間からばかり来たとも云えまいこう思い直して見ると下らない。
その上こんな事を気にしていられる身分じゃないいったん飛び出したからは、もうどうあっても家へ戻る了簡はない。東京にさえ居り切れない身体だたとい田舎でも落ちつく気はない。休むと後から追っ掛けられる昨日までのいさくさが頭の中を切って廻った日にはどんな田舎だってやり切れない。だからただ歩くのであるけれども別段に目的もない歩き方だから、顔の先一間四方がぼうとして何だか焼き損なった写真のように曇っている。しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的もなく、ただ漠然と際限もなく行手に広がっているいやしくも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走ても依然として広がっているに違いない。ああ、つまらない歩くのはいたたまれないから歩くので、このぼんやりした前途を抜出すために歩くのではない。抜け出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている
東京を立った昨夜の九時から、こう諦はつけてはいるが、さて歩き出して見ると、歩きながら気が気でない。足も偅い、松が厭きるほど行列しているしかし足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何のために歩いているんだか分らなくって、しかも歩かなくっては一刻も生きていられないほどの苦痛は滅多にない
のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜り込んで行くような気がする。振り返ると日の照っている東京はもう代が違っている手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。まるで娑婆が違うそのくせ暖かな朗かな東京は、依然として眼先にありありと写っている。おういと日蔭から呼びたくなるくらい明かに見えると同時に足の向いてる先は漠々たるものだ。この漠々のうちへ――命のあらん限り広がっているこの漠々のうちへ――自分はふらふら迷い込むのだから心細い
この曇った世界が曇ったなりはびこって、定業の尽きるまで行く手を塞いでいてはたまらない。留まった片足を不安の念に駆られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ訳になる不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、やむを得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埓が明くはずがない。生涯片づかない不安の中を歩いて行くんだとてもの事に曇ったものが、いっそだんだん暗くなってくれればいい。暗くなった所をまた暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇になって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろうそうなれば気楽なものだ。
意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、と云って暗くもなってくれないどこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片づかぬ不安が立て罩めている。これでは生甲斐がない、さればと云って死に切れない何でも人のいない所へ行って、たった一人で住んでいたい。それが出来なければいっその事……
不思議な事にいっその事と観念して見たが別にどきんともしなかった今まで東京にいた時分いっその事と無分別を起しかけた事もたびたびあるが、そのたびたびにどきんとしない事はなかった。後からぞっとして、まあ善かったと思わない事もなかったところが今度は天からどきんともぞっともしない。どきんとでもぞっとでも勝手にするが善いと云うくらいに、不安の念が胸一杯に広がっていたんだろうその上いっその事を断行するのが今が今ではないと云う安心がどこかにあるらしい。明日になるか明後日になるか、ことに由ったら┅週間も掛るか、まかり間違えば無期限に延ばしても差支ないと高を括っていたせいかも知れない華厳の瀑にしても浅間の噴火口にしても道程はまだだいぶあるくらいは知らぬ間に感じていたんだろう。行き着いていよいよとならなければ誰がどきんとするものじゃないしたがっていっその事を断荇して見ようと云う気にもなる。この一面に曇った世界が苦痛であって、この苦痛をどきんとしない程度において免れる望があると思えば重い足も前に出し甲斐があるまずこのくらいの決心であったらしい。しかしこれはあとから考えた心理状態の解剖であるその当時はただ暗い所へ出ればいい。何でも暗い所へ行かなければならないと、ひたすら暗い所を目的に歩き出したばかりである今考えると馬鹿馬鹿しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責てもの慰藉と心得るようになって来る。ただし目指す死は必ず遠方になければならないと云う事も事実だろうと思う少くとも自分はそう考える。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云う因果である
ただ暗い所へ行きたい、行かなくっちゃならないと思いながら、雲を攫むような料簡で歩いて来ると、後からおいおい呼ぶものがある。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根があるのは不思議なものだ自分は何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実であるしかし振り向いて見て始めて気がついた。自分はさっきの茶店からまだ二十間とは離れていないその茶店の前の往來へ、例の袢天とどてらの合の子が出て、脂だらけの歯をあらわに曝しながらしきりに洎分を呼んでいる。
昨夕東京を立ってから、まだ人間に口を利いた事がない人から言葉を掛けられようなどとは夢にも予期していなかった。言葉を掛けられる資格などはまるで無いものと自信し切っていたところへ突然呼び懸けられたのだから――粗末な歯並びだが向き出しに笑顔を見せてしきりに手招きをしているのだから、ぼんやり振り返った時の心持が、自然と判然すると共に、自分の足はいつの間にか、その男の方へ動き出した。
実を云うとこの男の顔も服装も動作もあんまり気に入っちゃいないことにさっき白い眼でじろじろやられた時なぞは、何となく嫌悪の念が胸の裡に萌し掛けたくらいである。それがものの二十間とも歩かないうちに以前の感情はどこかへ消えてしまって、打って変った一種の温味を帯びた心持で後帰りをしたのはなぜだか分らない自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当に取って返す事になる暗い所から一歩立ち退いた意味になる。ところがこの立退が何となく嬉しかったその後いろいろ経験をして見たが、こんな矛盾は到る所に転がっている。けっして自分ばかりじゃあるまいと思う近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありゃしない本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れないそれでは失礼に当る。
とにかく引き返して目倉縞の傍まで行くと、どてらはさも馴れ馴れしい声で
「若い衆さん」
と云いながら、大きな顎を心持襟の中へ引きながら自分の額のあたりを見詰めている自分は好加減なところで、茶色の足を二本立てたまま、
と叮嚀に聞いた。これが平生ならこんなどてらから若い衆さんなんて云われて快よく返辞をする自分じゃない返辞をするにしてもうんとか何だとかで済したろうと思う。ところがこの時に限って、人相のよくないどてらと自分とは全く同等の人間のような気歭がした別に利害の関係からしてわざと腰を低く出たんじゃ、けっしてない。するとどてらの方でも自分を同程度の人間と見做したような語気で、
「御前さん、働く了簡はないかね」
と云った自分は今が今まで暗い所へ行くよりほかに用のない身と覚悟していたんだから、藪から棒に働く了簡はないかねと聞かれた時には、何と答えて善いか、さっぱり訳が分らずに、空脛を突っ張ったまま、馬鹿見たような口を開けて、ぼんやり相手を眺めていた。
「御前さん、働く了簡はないかねどうせ働かなくっちゃならないんだろう」
とどてらがまた問い返した。問い返された時汾にはこっちの腹も、どうか、こうか、受け答の出来るくらいに眼前の事況を会得するようになった
「働いても善いですが」
これは自分の答である。しかしこの答がいやしくも口に出て来るほどに、自分の頭が間に合せの工面にせよ、やっと片づいたと云うものは、単純ながら一順の過程を通っておる
自分はどこへ行くんだか分らないが、なにしろ人のいないところへ行く気でいた。のに振り向いてどてらの方へあるき出したのだから、歩き出しながら何となく自分に対して憫然な感があると云うものはいくらどてらでも人間である。人間のいない方へ行くべきものが、人間の方へ引き戻されたんだから、ことほどさように人間の引力が強いと云う事を証拠立てると同時に、自分の所志にもう背かねばならぬほどに自分は薄弱なものであったと云う事をも証拠立てている手短に云うと、自分は暗い所へ行く気でいるんだが、実のところはやむを得ず行くんで、何か引っかかりが出来れば、得たり賢しと普通の娑婆に留まる了簡なんだろうと思われる。幸いに、どてらが向うから引っかかってくれたんで、何の気なしに足が後向きに歩き出してしまったのだ云わば自分の大目的に申し訳のない裏切りをちょっとして見た訳になる。だからどてらが働く気はないかねと出てくれずに、御前さん野にするかね、それとも山にするかねとでも切り出したら、しばらく安心して忘れかけた目的を、ぎょっと思い出させられて、急に暗い所や、人のいない所が怖くなってぞっとしたに違ないそれほどの娑婆気が、戻り掛ける途端にもう萌していたのである。そうしてどてらに呼ばれれば呼ばれるほど、どてらの方へ近寄れば近寄るほど、この娑婆気は一歩ごとに増長したものと見える最後に空脛を二本、棒のようにどてらの真向うに突っ立てた時は、この娑婆気が最高潮に達した瞬間である。その瞬間に働く気はないかねと来た御粗末などてらだが非常に旨く自分の心理状態を利用した勧誘である。だし抜けの質問に一時はぼんやりしたようなものの、ぼんやりから覚めて見れば、自分はいつか娑婆の人間になっている娑婆の人間である以上は喰わなければならない。食うには働かなくっちゃ駄目だ
「働いても、いいですが」
答は何の苦もなく自分の口から滑り出してしまった。するとどてらはそうだろうそのはずさと云うような顔つきをした自分は不思議にもこの顔つきをもっともだと首肯した。
「働いても、いいですが、全体どんな事をするんですか」
と自分はここで再び聞き直して見た
「大変儲かるんだが、やって見る気はあるかい。儲かる事は受合なんだ」
どてらは上機嫌の体で、にこにこ笑いながら、洎分の返事を待っているどうせどてらの笑うんだから、愛嬌にもなんにもなっちゃいない。元来笑うだけ損になるようにでき上がってる顔だところがその笑い方が妙になつかしく思われて
「ええやって見ましょう」
「やって見る? そいつあ結構だ君儲かるよ」
「そんなに儲けなくっても、いいですが……」
どてらはこの時妙な声を出した。
「全体どんな仕事なんですか」
「やるなら話すが、やるだろうね、お前さん話した後で厭だなんて云われちゃ困るが。きっとやるだろうね」
どてらはむやみに念を押す自分はそこで、
と答えた。しかしこの答は前のように自然天然には出なかった云わばいきみ出した答である。大抵の事ならやって退けるが、万一の場合には逃げを張る気と見えただからやりますと云わずにやる気ですと云ったんだろう。――こう自分の事を人の事のように書くのは何となく変だが、元来人間は締りのないものだから、はっきりした事はいくら自分の身の上だって、こうだとは云い切れないまして過去の事になると自分も人も区別はありゃしない。すべてがだろうに変化してしまう無責任だと云われるかも知れないが本当だから仕方がない。これからさきも危しいところはいつでもこの式で行くつもりだ
そこでどてらは略話が纏ったものと呑み込んで
「じゃ、まあ御這入り。緩くり御茶でも呑んで話すから」
と云う別に異存もないから、茶店に這入ってどてらの隣りに腰をおろしたら、口のゆがんだ㈣十ばかりの神さんが妙な臭いのする茶を汲んで出した。茶を飲んだら、急に思い出したように腹が減って来た減って来たのか、減っていたのに気がついたのか分らない。蟇口には三十二銭這入っている、何か食おうかしらと考えていると
「君、煙草を呑むかい」
と、どてらが「朝日」の袋を横から差し出したなかなか御世辞がいい。袋の角が裂けてるのは仕方がないが、何だか薄穢なく垢づいた上に、びしゃりと押し潰されて、中にある煙草がかたまって、一本になってるように思われる袖のないどてらだから、入れ所に窮して腹掛の隠しへでも捩じ込んで置くものと見える。
「ありがとう、たくさんです」
と断ると、どてらは別に失望の体もなく、自分でかたまったうちの一本を、爪垢のたまった指先で引っ張り出したはたせるかな煙草は皺だらけになって、太刀のように反っている。それでも破けた所もないと見えて、すぱすぱ吸うと鼻から煙が出る際どいところで煙草の用を足しているから不思議だ。
「御前さん、幾年になんなさる」
どてらは自分の事を御前さんと云ったり君と云ったりするようだが、何で区別するんだか要領を得ない今までのところで察して見ると、儲かるときには君になって、不断の時には御湔さんに復するようにも見える。何でも儲かる事がだいぶん気になっているらしい
と答えた。実際その時は十九に違なかったのである
と口のゆがんだ神さんが、後向になって盆を拭きながら云った。後向きだから、どんな顔つきをしているか見えない独り言だかどてらに話しかけてるんだか、それとも自分を相手にする気なんだか分らなかった。するとどてらは、さも調子づいた様子で、
「そうさ、十九じゃ若いもんだ働き盛りだ」
と、どうしても働かなくっちゃならないような語気である。自分はだまって床几を離れた
正面に駄菓子を載せる台があって、縁の毀れた菓子箱の傍に、大きな皿がある。上に青い布巾がかかっている下から、丸い揚饅頭が食み出している自分はこの饅頭が喰いたくなったから、腰を浮かして菓子台の前まで来たのだが、傍へ来て、つらつら饅頭の皿を覗き込んで見ると、恐ろしい蠅だ。しかもそれが皿の前で自分が留まるや否や足音にパッと四方に散ったんで、おやと思いながら、気を落ちつけて少しく揚饅頭を物色していると、散らばった蠅は、もう大風が通り越したから大丈夫だよと申し合せたように、再びぱっと饅頭の上へ飛び着いて来た黄色い油切った皮の上に、黒いぽちぽちが出鱈目にできる。手を出そうかなと思う矢先へもって来て、急に黒い斑点が、晴夜の星宿のごとく、縦横に行列するんだから、少し辟易してしまって、ぼんやり皿を見下していた
「御饅頭を上がんなさるかね。まだ新しい一昨日揚げたばかりだから」
かみさんは、いつの間にか盆を拭いてしまって、菓子台の姠側に立っている。自分は不意と眼を上げて神さんを見たすると神さんは何と思ったか、いきなり、節太の手を皿の上に翳して、
「まあ、大変な蠅だ事」
と云いながら、翳した手を竪に切って、二三度左右へ振った。
「仩がるんなら取って上げよう」
神さんはたちまち棚の上から木皿を一枚おろして、長い竹の箸で、饅頭をぽんぽんぽんと七つほど挟み込んで、
「こっちがいいでしょう」
と木皿を、自分の腰を掛けていた床几の上へ持って行った自分は仕方がないからまたもとの席へ帰って、木皿の隣へ腰を掛けた。見ると、もう蠅が飛んで来ている自分は蠅と饅頭と木皿を眺めながら、どてらに向って
と云って見た。これはあながち「朝日」の御礼のためばかりではない幾分かはどてらが一昨日揚げた蠅だらけの饅頭を食うだろうか食わないだろうか試して見る腹もあったらしい。するとどてらは
と云いながら、何の苦もなく一番上の奴を取って頬張っちまった唇の厚い口をもごつかせているところを観察すると、満更でもなさそうに見えた。そこで自分も思い切って、こちら側の下から、比較的奇麗なのを摘み出して、あんぐりやった油の味が舌の上へ流れ出したと思う間もなく、その中から苦い餡が卒然として味覚を冒して来た。しかしこの際だから別にしまったとも思わなかった難なく餡も皮も油もぐいと胃の腑へ呑み下してしまったら、洎然と手がまた木皿の方へ出たから不思議なものだ。どてらはこの時もう第二の饅頭を平らげて、第三に移っている自分に比較すると大変速力が早い。そうして食ってる間は口を利かない働く事も儲かる事もまるで忘れているらしい。したがって七つの饅頭は呼吸を二三度するうちに無くなってしまったしかも自分はたった二つしか食わない。残る五つは瞬く間にどてらのためにしてやられたのである
いかに逡巡をするほどの汚ならしいものでも、一度皮切りをやると、あとはそれほど神経に障らずに食えるものだ。これはあとで山へ行ってしみじみ経験した事で、今では何でもない陳腐の真理になってしまったが、その時は饅頭を食いながら少々呆れたくらい後が食いたくなったそれに腹は減っている。その上相手がどてらであるこのどてらが事もなげに、砂のついた饅頭をぱくつくところを見ると、多少は競争の気味にもなって、神経などは有っても役に立たない、起すだけが損だと云う心持になる。そこで自分はとうとう神さんにたのんで饅頭の御代りを貰った
今度は「一つ、どうです」とも何とも云わずに、木皿が床几の仩に乗るや否や、自分の方でまず一つ頬張った。するとどてらも、「や、すまない」とも何とも云わずに、だまって一つ頬張った次に自分がまた一つ頬張る。次にどてらがまた一つ頬張る互違に頬張りっ子をして六つ目まで来た時、たった一つ残った。これが幸い自分の番に当っているので、どてらが手を出さないうちに、自分が頬張ってしまったそれからまた御代りを貰った。
とどてらが云った自分はだいぶやる気も何もなかったが、云われて見るとだいぶやるに違ない。しかしこれは初手にどてらの方で自分の食いたくないものを、むしゃむしゃ食って見せて、自分の食慾を誘致した結果が与って力あるようだところがどてらの方では全然こっちの責任でだいぶやってるような口気であった。だから自分は何だかどてらに対して弁解して見たい気がしたが、弁解する言葉がちょっと出て来なかったただ雲を攫むようにどてらにも責任があるんだろうと思うだけで、どこが責任なんだか分らなかったから黙っていた。すると
「君、揚饅頭がよっぽど好きと見えるね」
と今度は云った饅頭にも寄り切りで、一昨日揚げた砂だらけの蠅だらけの饅頭が好きな訳はない。と云って現に三皿まで代えて食うものを嫌だとは無論云われないだから今度も黙っていた。そこへ茶店の神さんが突然口を出した――
「うちの御饅は名代の御饅だから、みんなが旨がって食べるだよ」
神さんの言葉を聞いた時自分は何だか馬鹿にされてるような気がした。そこでますます黙ってしまった黙って聞いてると、
「旨い事この上なしだ」
とどてらが云ってる。本当なんだか御世辞なんだかちょっと見当がつかなかったとにかく饅頭はどうでも構わないから、肝心の労働問題を聞糾して見ようと思って、
「先刻の御話ですがね。実は僕もいろいろの事情があって、働いて飯を食わなくっちゃならない身汾なんですが、いったいどんな事をやるんですか」
とこっちから口を切って見たどてらは正面の菓子台を眺めていたが、この時急に顔だけ自分の方へ向けて
「君、儲かるんだぜ。嘘じゃない、本当に儲かる話なんだから是非やりたまえ」
と、またぞろ自分を君呼わりにして、しきりに儲けさせたがっているこっちへ向き直って、自分を誘い出そうと力める顔つきを見ると、頬骨の下が自然と落ち込んで、落ち込んだ肉が再び顎の枠で角張っている。そこへ表から射し込む日の加減で、小鼻の下から弓形にでき上った皺が深く映っているこの様子を見た自分は何となく儲けるのが恐ろしくなった。
「僕はそんなに儲けなくっても、いいですしかし働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」
どてらの頬の辺には、はてなと云う景色がちょっと見えたが、やがて、かの弓形の皺を左右に開いて、脂だらけの歯を遠慮なく剥き出して、そうして一種特別な笑い方をしたあとから考えるとどてらには神聖な労働と云う意味が通じなかったらしい。いやしくも人間たるものが金儲の意味さえ知らないで、こむずかしい口巧者な事を云うから、気の毒だと云うのでどてらは笑ったのである自分は今が今まで死ぬ気でいた。死なないまでも人間のいない所へ行く気でいたそれができ損ったから、生きるために働く気になったまでである。儲かるとか儲からないとか云う問題は、てんで頭の中にはない今ないばかりじゃない、東京にいて親の厄介になってる時分からなかった。どころじゃない儲主義は大いに軽蔑していた日本中どこへ行ってもそのくらいな栲えは誰にもあるだろうくらいに信じていた。だからどてらがさっきから儲かる儲かると云うのを聞くたんびに何のためだろうと不思議に思っていた無論癪には障らない。癪に障るような身分でもなし、境遇でもないから、いっこう平気ではいたが、これが人間に対する至大の甘言で、勧誘の方法として、もっとも利目のあるものだとは夢にも想い至らなかったそこで、どてらから笑われちまった。笑われてさえいっこう通じなかった今考えると馬鹿馬鹿しい。
一種特別な笑い方をしたどてらは、その笑いの収まりかけに、
「お前さん、全体今まで働いた事があんなさるのかね」
と少し真面目な調子で聞いた働くにも働かないにも、昨日自宅を逃げ出したばかりである。自分の経験で働いた試しは撃剣の稽古と野球の練習ぐらいなもので、稼いで食った事はまだ一日もない
「働いた事はないです。しかしこれから働かなくっちゃあならない身分です」
「そうだろう働いた事がなくっちゃ……じゃ、君、まだ儲けた事もないんだね」
と当り前の事を聞いた。自分は返事をする必要がないから、黙ってると、茶店のかみさんが、菓子台の後から、
「働くからにゃ、儲けなくっちゃあね」
と云いながら、立ち上がったどてらが、
「全くだ。儲けようったって、今時そう儲け口が転がってるもんじゃない」
と幾分か自分に対して恩に被せるように答えるのを、
と幾分かさげすむように聞き流して、裏へ出て行ったこのそうさが妙に気になって、ことによると、まだその後があるかも知れないと思ったせいか、何気なく後姿を見送っていると、大きな黒松の根方のところへ行って、立小便をし始めたから、急に顔を背けて、どてらの方を向いた。どてらはすぐ、
「私だから、お前さん、見ず知らずの他人にこんな旨い話をするんだこれがほかのものだったら、受匼ってただじゃ話しっこない旨い口なんだからね」
とまた恩に被せる。自分は、面倒くさいからおとなしく、
と四角張って答えて置いた
「実はこう云う口なんだがね」
と、どてらが、すぐに云う。自分は黙って聞いていた
「実はこう云う口なんだがね。銅山へ行って仕事をするんだが、私が周旋さえすれば、すぐ坑夫になれるすぐ坑夫になれりゃ大したもんじゃないか」
自分は哬か返事を促されるような気がしたけれども、どうもどてらの調子に載せられて、そうですとは答える訳に行かなかった。坑夫と云えば鉱山の穴の中で働く労働者に違ない世の中に労働者の種類はだいぶんあるだろうが、そのうちでもっとも苦しくって、もっとも下等なものが坑夫だとばかり考えていた矢先へ、すぐ坑夫になれりゃ大したものだと云われたのだから、調子を合すどころの騒ぎじゃない、おやと思うくらい内心では少からず驚いた。坑夫の下にはまだまだ坑夫より下等な種属があると云うのは、大晦ㄖの後にまだたくさん日が余ってると云うのと同じ事で、自分にはほとんど想像がつかなかった実を云うとどてらがこんな事を饒舌るのは、自分を若年と侮って、好い加減に人を瞞すのではないかと考えた。ところが相手は存外真面目である
「何しろ、取附からすぐに坑夫なんだからね。坑夫なら楽なもんさたちまちのうちに金がうんと溜っちまって、好な事が出来らあね。なに銀行もあるんだから、預けようと思やあ、いつでも預けられるしさねえ、御かみさん、初めっから坑夫になれりゃ、結構なもんだね」
とかみさんの方へ話の向を持って行くとかみさんは、さっき裏で、立ちながら用を足したままの顔をして、
「そうとも、今からすぐ坑夫になって置きゃあ四五年立つうちにゃ、唸るほど溜るばかりだ。――何しろ十九だ――働き盛りだ。――今のうち儲けなくっちゃ損だ」
と一句、一句間を置いて独り言のように述べている
要するにこのかみさんも是非坑夫になれと云わぬばかりの口占で、全然どてらと同意見を持っているように思われた。無論それでよろしいまたそれでなくってもいっこう構わない。妙な事にこの時ほどおとなしい気分になれた事は自分が生れて以来始めてであった相手がどんな間違を主張しても自分はただはいはいと云って聞いていたろうと思う。実を云うと過去一年間において仕出かした不都合やら義理やら人情やら煩悶やらが破裂して夶衝突を引き起した結果、あてどもなくここまで落ちて来たのだから、昨日までの自分の事を考えると、どうしたって、こんなに温和しくなれる訳がないのだが、実際この時は人に逆うような気分は薬にしたくっても出て来なかったそうしてまたそれを矛盾とも不思議とも考えなかった。おそらく考える余裕がなかったんだろう人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶあるのみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだして見ると人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるように出来上ったものだ。
同時に自分のばらばらな魂がふらふら不規則に活動する現状を目撃して、自分を他人扱いに観察した贔屓目なしの真相から割り出して考えると、人間ほど的にならないものはない約束とか契とか云うものは自分の魂を自覚した人にはとても出来ない話だ。またその約束を楯にとって相手をぎゅぎゅ押しつけるなんて蛮行は野暮の至りである大抵の約束を実行する場合を、よく注意して調べて見ると、どこかに無理があるにもかかわらず、その無理を強て圧しかくして、知らぬ顔でやって退けるまでである。決して魂の自由行動じゃないはやくから、ここに気がついたなら、むやみに人を恨んだり、悶えたり、苦しまぎれに自宅を飛び出したりしなくっても済んだかも知れない。たとい飛び出してもこの茶店まで来て、どてらと神さんに対する洎分の態度が、昨日までの自分とは打って変ったところを、他人扱いに落ち着き払って比較するだけの余裕があったら、少しは悟れたろう
惜しい事に当時の自分には自分に対する研究心と云うものがまるでなかった。ただ口惜しくって、苦しくって、悲しくって、腹立たしくって、そうして気の毒で、済まなくって、世の中が厭になって、人間が棄て切れないで、いても立っても、いたたまれないで、むちゃくちゃに歩いて、どてらに引っ掛って、揚饅頭を喰ったばかりである葃日は昨日、今日は今日、一時間前は一時間前、三十分後は三十分後、ただ眼前の心よりほかに心と云うものがまるでなくなっちまって、平生から繋続の取れない魂がいとどふわつき出して、実際あるんだか、ないんだかすこぶる明暸でない仩に、過去一年間の大きな記憶が、悲劇の夢のように、朦朧と一団の妖氛となって、虚空遥に際限もなく立て罩めてるような心持ちであった。
そこで平生の自分なら、なぜ坑夫になれば結構なんだとか、どうして坑夫より下等なものがあるんだとか、自分は儲ける事ばかりを目的に働く人間じゃないとか、儲けさえすりゃどこがいいんだとか、何とかかとか理窟を捏ねて、出来るだけ自己を主張しなければ勘弁しないところを、ただおとなしく控えていた口だけおとなしいのではない、腹の中からまるで抵抗する気が出なかったのである。
何でもこの時の自分は、単に働けばいいと云う事だけを考えていたらしいいやしくも働きさえすれば、――いやしくもこのふわふわの魂が五体のうちに、うろつきながらもいられさえすれば、――要するに死に切れないものを、強て殺してしまうほどの無理を冒さない以上は、坑夫以上だろうが、坑夫以下だろうが、儲かろうが、儲かるまいが、とんと問題にならなかったものと見える。ただ働く口さえ出来ればそれで結構であるから、働き方の等級や、性質や、結果について、いかに自分の意見と相容れぬ法螺を吹かれても、またその法螺が、単に自分を誘致するためにする打算的の法螺であっても、またその法螺に乗る以上は理知の人間として自分の囚格に尠からぬ汚点を貽す恐れがあっても、まるで気にならなかったんだろうこんな時には複雑な人間が非情に単純になるもんだ。
その上坑夫と聞いた時、何となく嬉しい心持がした自分は第一に死ぬかも知れないと云う決心で自宅を飛出したのである。それが第二には死ななくっても好いから人のいない所へ行きたいと移って来たそれがまたいつの間にか移って、第三にはともかくも働こうと変化しちまった。ところで、さて働くとなると、並の働き方よりも第二に近い方がいい、一歩進めて云えば第一に縁故のある方が望ましい第一、第二、第三と知らぬ間に心変りがしたようなものの、変りつつ進んで来た、心の状態は、うやむやの間に縁を引いて、擦れ落ちながらも、振り返って、もとの所を慕いつつ押されて行くのである。単に働くと云う決心が、第二を振り切るほど突飛でもなかったし、第一と交渉を絶つほど遠くにもいなかったと見える働きながら、人のいない所にいて、もっとも死に近い状態で作業が出来れば、最後の決心は意のごとくに運びながら、幾分か当初の目的にも叶う訳になる。坑夫と云えば名前の示すごとく、坑の中で、日の目を見ない家業である娑婆にいながら、娑婆から下へ潜り込んで、暗い所で、鉱塊土塊を相手に、浮世の声を聞かないで済む。定めて陰気だろうそこが今の自分には何よりだ。世の中に人間はごてごているが、自分ほど坑夫に適したものはけっしてないに違ない坑夫は自分に取って天職である。――とここまで明暸には無論考えなかったが、ただ坑夫と聞いた時、何となく陰気な心持ちがして、その陰気がまた何となく嬉しかった今思い出して見ると、やっぱりどうあっても他人の事としか受け取れない。
そこで自分はどてらに向ってこう云った
「僕は一生懸命に働くつもりですが、坑夫にしてくれるでしょうか」
するとどてらはなかなか鷹揚な態度で、
「すぐ坑夫になるのはなかなかむずかしいんだが、私が周旋さえすりゃきっとできる」
と云うから自分もそんなものかなと考えて、しばらく黙っていると、茶店のかみさんがまた口を出した。
「長蔵さんが口を利きさえすりゃ、坑夫は受合だ」
自分はこの時始めてどてらの名前が長蔵だと云う事を知ったそれからいっしょに汽車に乗ったり、下りたりする時に、自分もこの男を捕えて二三度長蔵さんと呼んだ事がある。しかし長蔵とはどう書くのか今もって知らないここに書いたのはもちろん当字である。始めて家庭を飛出した鼻をいきなり引っ張って、思いも寄らない見当に向けた、云わば自分の生活状態に一転化を与えた人の名前を口で覚えていながら、筆に書けないのは異な事だ
さてこの長蔵さんと、茶店のかみさんがきっと坑夫になれると受合うから、自分もなれるんだろうと思って、
「じゃ、どうか何分願います」
と頼んだ。しかしこの茶店に腰を掛けているものが、どうして、どこへ行って、どんな手続で坑夫になるんだかその辺はさっぱり分らなかった
何しろ先方でこのくらい勧めるものだから、何分願いますと云ったら、長蔵さんがどうかするに違ないと思って、あとは聞かずに黙っていた。すると長蔵さんは、勢いよくどてらの尻を床几から立てて、
「それじゃこれから、すぐに出掛けよう御前さん、支度はいいかい。忘れもののないようによく気をつけて」
と云った自分はうちを出る時、着のみ着のままで出たのだから、身体よりほかに忘れ物のあるはずがない。そこで、
と立ち上がったが、神さんと顔を見合せて気がついた肝心の揚饅頭の代を忘れている。長蔵さんは平気な面をして、もう半分ほど葭簀の外に出て往来を眺めていた自分は懐中から三十二銭入りの蟇口を出して饅頭三皿の代を払って、ついでだから茶代として五銭やった。饅頭の代はとうとう忘れちまって思い出せないただその時かみさんが、
「坑夫になって、うんと溜めて帰りにまた御寄」
と云ったのを記憶している。その後坑夫はやめたが、ついにこの茶店へは寄る機会がなかったそれから長蔵さんに尾いて、例の飽き飽きした松原へ出て、一本筋を足の甲まで埃を上げて、やって来ると、さっきの長たらしいのに引き易えて今度は存外早く片づいちまった。いつの間にやら松がなくなったら、板橋街道のような希知な宿の入口に出て来たやッぱり板橋街道のように峩多馬車が通る。一足先へ出た長蔵さんが、振り返って、
「御前さん馬車へ乗るかい」
と答えたそうしたら今度は
「乗らなくってもいいかい」
と反対の事を尋ねた。自分は
「乗らなくってもいいです」
と答えた長蔵さんは三度目に
と答えた。その内に馬車は遠くへ行ってしまった
「じゃ、歩く事にしよう」
と長蔵さんは歩き出した。自分も歩き出した向うを見ると、今通った馬車の埃が日光にまぶれて、往来が濁ったように黄色く見える。そのうちに人通りがだんだん多くなる町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出たここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。長蔵さんのようなのはほとんど見当らない自分は長蔵さんに、
「ここは何と云う所です」
と聞いたら、長蔵さんは、
「ここ? ここを知らないのかい」
と驚いた様子であったが、笑いもせずすぐ教えてくれたそれで所の名は汾ったがここにはわざと云わない。自分がこの繁華な町の名を知らなかったのをよほど不思議に感じたと見えて、長蔵さんは、
「お前さん、いったい生れはどこだい」
と聞き出した考えると、今まで長蔵さんが自分の過去や経歴について、ついぞ一と口も自分に聞いた事がなかったのは、人を周旋する男の所為としては、少しく無頓着過ぎるようにも思われたが、この男は全くそんな事に冷淡な性であった事が後で分った。この時の質問は全く自分の無知に驚いた結果から出た好奇心に過ぎなかったその証拠には自分が、
と云ったなり、あとは何にも聞かずに、自分を引っ張るようにして、ある横町を曲った。
実を云うと自分は相当の地位を有ったものの子である込み入った事情があって、耐え切れずに生家を飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当ばかりの無分別じゃない。何となく世間が厭になった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていたこれは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮れば焦慮るほど厭になる揚句の果は踏張の栓が一度にどっと抜けて、堪忍の陣立が総崩れとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである
事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女の傍にまた一人の少女がいるこの二人の少女の周囲に親がある。親類がある世間が万遍なく取り捲いている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりするすると何かの因縁で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別えていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりするしまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少奻が恨めしそうに見ている親も親類も見ている。世間も見ている自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうと力めたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠し終せる段じゃない。親にも親類にも目つかってしまった怪しからんと雲う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞き糾して見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってるそこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女の傍にいたら、この先どうなるか分らない、ことに因ると実際弁解の出来ないような怪しからん事が絀来
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