「中国浙江省 勇立潮头の川で満ちた潮が激しく逆流」的日本新闻原文

一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なたたかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろな人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのための文献も得たいと思った。
私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆(キールン)の東およそ百二十浬(かいり)の東中国海に散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それをたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教えを受けたいと思っていた。
さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。
これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」--正しくは釣魚諸島あるいは釣魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)--は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。
領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。
一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ?トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにアメリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(こうびしょ、日本で久場島という)を、五六年四月以来赤尾嶼(せきびしょ、日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。
この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これらの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことがある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さらに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用することとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日新聞』一九七二?五?一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている。
それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認することができた。
まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めには西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした。
そのとき私は、次のように考えていた。
--もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱな、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっていることだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つまり玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。--
こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざるを補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとするものもなかった。
要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。
小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったのではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることであると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。
琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。
この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところいわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もはや釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、また釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあっても、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列島の開発」に、早くも熱をあげていた。
まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、どのようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそそいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。
けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。
この論文の主要な課題は二つある。
第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどしかったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さけがたいことである。
第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これは、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを訂正しなければならない。
すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いたのは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。このことを論証するのが、本論の第二の課題である。
本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみなさんの御援助をお願いする。
二 日本政府などは故意に歴史を無視している
現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。
この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のようにのべている。
(1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知られており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節--冊封使(さくほうし)--が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来したときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』にも、この島々の名が見える。
しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。これには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々--井上)を中国領であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしました。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼などを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。」
要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのであります。」
(2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島(尖閣群島のあやまり--井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。」
(3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これまでと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこで「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通り標杭を建設させることにした。」
(4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行はれています。」
琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごまかしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後にいちいちばくろする。
本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定するまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民地主義?帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しかるにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証明をしていない。
外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけである。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちにこれを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりかえしにすぎない。
共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」
朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない。」
日共や朝日新聞はこのように、明?清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、このさい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているのである。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をするわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレットなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろうとはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない。
三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。
琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。
(註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。
また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的?政治的には中国書といえるほどである。
つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風?順流になるが、琉球からは逆風?逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。
琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明?清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。
この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。
十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、--それ以外の航路はない--その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳?郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。
そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉?中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。
陳?郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。
たしかに、陳?郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。
おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(こそうけん)が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞?哨所などの配置や兵器?船艦の制などを説明した本である。
本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、あるいはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのすることであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじつけるためのたわごとにすぎない。
四 清代の記録も中国領と確認している
以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。
郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳?郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中?琉の領界の記述はない。
このように、陳?郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳?郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中?琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。
ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。
「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい?かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。
「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」
右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。
この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない--井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。
これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。
さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人?日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪?周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。
斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。
のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。
徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者--とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(さいおん)(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。
(註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理?天文?気象を専攻した。後に王府の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)
『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と註している。
この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても言いすぎではないから。
(註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。
もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、しかもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島について、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、「鎮」という字に重要な意味がある。
「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であることは、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じである。
五 日本の先覚者も中国領と明記している
これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』のである。
『三国通覧図説』--以下の文では略して『図説』ということもある--とその五枚の「付図」は、「天明五年(一七八五年)秋東都須原屋市兵衛梓」として最初に出版された。その一本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて五十四?八センチ、横七十八?三センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六嶋之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰緑色にぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(註一)は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。
(註一)沖縄本島の北側の与論島から鬼界島に至る、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国領であったが、一六〇九年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津の直轄領地とされた。そのことは『中山傳信録』著者も林子平もよく知っていたが、それでも、これらの島々は琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日のどの国の学者にも共通している。
琉球の蔡温が『琉球国中山世鑑』の誤りを正した父の著書を、いっそう正確に改修した『中山世譜』(一七二五年序)の首巻には、「琉球輿地名号会記」と地図があるが、それも、全琉球を中山および三十六島とし、鬼界カ島までを琉球にいれている。子平より大分前の新井白石の『南島志』(一七一九年)も、そうしている。もちろん釣魚諸島は琉球三十六島の中に入っていない。
(註二)林子平が台湾の色を中国本土と区別して書いている理由を正確に断定することはできないが、およその推定はできる。すなわち、『図説』の付図の中には、次にのべる東アジア全図というべきものがあるが、それには、子平がはっきり日本領と見なしている小笠原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これから類推すると、彼は台湾は中国領ではあっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのではあるまいか。
この図により、子平が釣魚諸島を中国領とみなしていたことは、一点のうたがいもなく、一目瞭然であり、文章とちがって、こじつけの解釈をいれる余地はない。『図説』の付図には「三国通覧輿地路程全図」という、「朝鮮、琉球、蝦夷并ニカラフト、カムサスカ、ラッコ島等数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」もあるが、日本を中心として北はカムチャッカ、南は小笠原、西は中国に至る広範囲の、いわば東アジア全図にさえ、釣魚諸島のような、けし粒ほどの島が--ほかの多くのはるかに大きい島も描いてないのに--、はっきり描かれ、それも中国本土と同じ色にぬられている。子平の『図説』にとっては、各国の範囲、その界を明確にすることは、決定的に重要であったので、釣魚諸島をはぶくわけにはいかなかったのであろう。
子平の琉球図は、彼が『図説』の序文で「此ノ数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ……琉球ハ元ヨリ中山傳信録アリ、是ヲ証トス」と誇らしげに書いている通り、『中山傳信録』の地図に拠ったものである。しかし彼はそれを無批判にうのみにしたのではない。子平は『中山傳信録』および子平の時代までの日本人の琉球研究の最高峰である新井白石の『琉球国事略』などを研究し、自分の見聞を加えて、『図説』の本文と地図を書いたのである。そして『傳信録』の図には、国による色わけはないのに、林子平は色をぬりわけた。
このことについて先の琉球政府声明は、子平は、『中山傳信録』に三十六島以外は琉球領とはしていないので、その外である釣魚島などを機械的に中国領として色分けしたのだ、そんなものに価値はないという。これは何とも気の毒なほど苦しい言いのがれである。子平は決して「機械的に」色分けしたのでないことは、図そのものにも明白である。すなわち、彼は中国領であることはよく知られている台湾、澎湖を中国本土とちがう色にぬり、釣魚諸島は本土と同色にぬっている。これをみても彼が琉球三十六島以外の島々はみな一律に中国本土と同じ色にしたのでないことは明らかである。子平は『中山傳信録』をよく研究し、そこに久米島が「琉球西南方界上鎮山」とあるのにより、その文を私が前節で解釈したのと同じく、ここを中国領と琉球領との界とし、ここに至るまでの釣魚諸島は中国領であることを信じて疑わなかったのであろう。そしてそのことをとくに明らかにする色分けをしたのである。
じっさい、『中山傳信録』の姑米島の註は、郭汝霖や陳侃の使記の、すでに引用した記述と同じく、久米島から東が琉球領であり、その西の島々は中国領であることを明らかにしていると解するのが、漢文の読み方としてしごく当然のことである。
私は『歴史学研究』二月号に、釣魚島の沿革を書いたとき、まだ『三国通覧図説』とその「付図」の天明五年版本を見ていなかった。そのとき私が使ったのは、一九四四年に東京の生活社が出版した『林子平全集』第二巻の活版本であった。その付図は国ごとの色わけはしてなかったので、私はたんに、子平の地図では、釣魚諸島は琉球と区別していることを指摘するにとどまった。いま原版を見ると、このようにはっきり中国領であることを色で示しているではないか。
それだけでなく、京都大学付属図書館の谷村文庫には、「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本が二種類ある。それには、「林子平図」あるいは「三国通覧図説附図」の写しということはどこにも書いてないが、一見して、子平の図の写しということは明らかである。その一つ(仮にこれを甲図という)は、『図説』の付図五枚--蝦夷、琉球、朝鮮、小笠原島のそれぞれの図および前記の日本を中心として「数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」--を、丈夫な和紙に、多分同一人が筆写した一組みの中に入っている。これは、琉球は赤茶色に、中国本土および釣魚諸島などはうすい茶色に、日本は青緑色に、台湾、澎湖は黄色にぬり分けてある。
もう一種の図(これを乙図と名づけよう)は、琉球を黄色に、中国の本土と釣魚諸島を桜色に、台湾をねずみ色に、そして日本を緑にぬり分けてある。
なお谷村文庫には、『三国通覧図説』付図の「朝鮮八道之図」の写本が、三種類あり、そのうちの一種は、前記琉球図の甲と一組みになっているものであり、もう一種は、前記琉球図の乙と同じ紙質の紙に、恐らく同一の筆者と思われる筆跡で書かれている。そしてこの朝鮮八道図と琉球図の乙には、元の所蔵者のものと思われる同一の朱印がおしてある。残りのもう一種は、原版をかなり精密に模写したものである。これと一組みになっていた琉球図その他の写本もあったにちがいないと推定されるが、そうだとすれば、原版のほかに、琉球図の写本--というよりも、『三国通覧図説』の付図五枚一組の写本が、少なくとも三種類はあったことになる。
さらに京都大学国史研究室には、もう一種の「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本がある。
周知のように、林子平はこの『三国通覧図説』および『海国兵談』の著作?出版により、幕府から処罰され、これらの版木も没収されてしまった。彼は日本人の近代的民族意識の先駆者であった。彼が『図説』を著述したのは、日本周辺の地理をよく知ることは、日本の国防--徳川幕府とか諸藩とか、あれこれの封建領主あるいはその総体の防衛ではなく、それらを超えた次元の「日本」の防衛のために、緊急の必要であると考えたからであり、また、その緊要の知識を、たんに幕府や諸藩の役人あるいは武士階級にだけ独占させず、「貴賎ト無ク文(官)武(官)ト無ク」、「本邦ノ人」=日本民族のすべてにひろめねばならない--なぜなら、事は日本の防衛にかかわる日本民族の問題であるから--として、あえてこの書を出版した。しかも付図は色刷りにして、異なった国と国との位置関係が一目でわかるように心を使った。
このように一介の知識人が、あえて日本の防衛を日本人民にうったえるという、まさに近代的民族主義的な思想と行動が、徳川幕府封建支配者の怒りにふれたのである。しかし、子平は日本人の近代民族的意識の成長を代表し、かつ、それに支えられていた。それゆえ、発売も発行も禁止された彼の本は、『海国兵談』も『三国通覧図説』も、争って読まれ、語られ、写され、ひろげられていった。
さらにまた、『三国通覧図説』は、早くも一八三二年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ?クラプロート(Heinrich
Klaproth)によって、フランス語に訳され出版されている。付図も原版と同じ色刷りである(註)。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかということ、また釣魚諸島が中国領であることは西洋人にも知られていたということがわかる。
(註)私はまだこの仏訳本を見ていないが、大熊良一『竹島史稿』の二二ページに、クラプロートの経歴とその『図説』翻訳に関する紹介がある。また台湾の『政大法学評論』第六期に、同書の琉球図の色刷りがある。
林子平のような日本の民族的自覚の先駆者が、当時までの中国人、琉球人また日本人の、琉球地理研究の最高峰であり集大成である、徐葆光や新井白石の著書を十分に研究し、民族の防衛を日本のすべての人にうったえるために精魂こめて書き、あえて出版した本、そして徳川封建支配者の弾圧に抗して、愛国的知識人の間にひろめられていき、国際的にも重視された本の図に、釣魚諸島は中国領であることが明記されているのである。こういう本の記述をしも、明治の天皇制軍国主義者とその子孫の現代帝国主義者およびその密接な協力者日本共産党などはまったく無視して、釣魚諸島は無主地であったなどと、よくもいえたものである。
六 「無主地先占の法理」を反駁する
琉球と釣魚諸島に関する、十六世紀から十八世紀にいたる、中国人、琉球人および日本人の最良の文献が、一致して、釣魚諸島は中国領であることを明らかにしているのに、あるいは、その中国語文章表現が現代の法律文とはちがうことを利用して、勝手にその意味をねじまげ、あるいは、どうにもねじまげることの不可能な地図については、それは機械的に色分けしたにすぎないなどと、軽薄なおのれの心をもって真剣な先覚者の苦心をおとしめる。このような議論の相手をするのは、いささかめんどうくさくなってきたが、そうも言ってはおれない。彼らが、二言めにはもち出す「国際法上の無主地先占の法理」なるものについて、駁撃しておかねばならない。
彼らは、一八八五年に釣魚諸島を奪いとろうとした天皇制軍国主義の最も熱烈な推進者、最大の指導者、陸軍中将、内務卿山県有朋と同じく、いくら明?清の中国人が釣魚諸島の存在を知り、それに中国語の名をつけ、記録していても、ここに当時の中国の政権の、「支配が及んでいる痕跡がない」、つまり、いわゆる国際法の領土先占の要件としての実効的支配が及んでいない、だからここは無主地であった、などという。
それでは、その「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法Ⅰ』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」(一六ぺージ)。この「合理的なルール」とは、私見では、つまりは強者の利益にすぎなかった。そのことは、とくに「無主地の先占の法理」において顕著である。田畑は次のように書いている。「戦争の問題とならんで、いま一つ、近世初頭の国際法学者の思索を強く刺戟したものは、新大陸、新航路の発見にともない展開された、植民地の獲得、国際通商の独占をめざした、激しい国家間の闘争であった。」この植民地争奪の激化に直面して、「国家間の行動を共通に規律するものとして(もっともこの場合には、他国に対して自国の行動を正当づけるといった動機が、多くの場合背景になっていたが)、国際法に関する論議がさかんに行なわれた。領域取得の新しい権原として、先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった」(一九ぺージ)。
「他国に対して自国の行動を正当づける」ために、もち出された「法理」が、「国際法」になるというのは、つまり強国につごうのよい論理がまかり通るということである。無主地先占論はその典型で、スペイン人、ポルトガル人が、アメリカやアジア、アフリカの大陸、太平洋の島々を、次から次へと自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」の原則が通用していた。それに対してオランダやイギリスが、競争者として立ちあらわれ、しだいにスペイン、ポルトガルに優越していくとともに、オランダの法学者グロチウスが、「先占の法理」をとなえだしたのである。それはオランダやイギリスにつごうのよい理論であって、やがてそれが「国際法」になった。
先占の「法理」なるものが、いかに欧米植民地主義?帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるかは、「無主地」の定義のしかたにも端的に出ている。田畑教授より先輩の国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法Ⅱ』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」(九八ぺージ)。これはまたなんと、近世ヨーロッパのいわゆる主権国家の勝手きままな定義ではないか。こういう「法理」で彼らは世界中を侵略し、諸民族を抑圧してはばからなかった。
横田も先占「法理」の成立について、「一五世紀の末における新発見の時代から、一八世紀のはじめまでは、新しい陸地や島を発見した場合に、それを自国の領土であると宣言し、国旗をかかげたり、十字架や標柱をたてたりして、それで領土を取得したことになるとされた」という。しかし、十九世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し支配しなければならないと主張され、それがしだいに諸国の慣行となった」。「おそくとも一九世紀の後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」(九八~九九ぺージ)。「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関が必要である。わけても、秩序を維持するために、警察力が必要である。多くの場合にはいくらかの兵力も必要である」(九九ぺージ)。
これも何のことはない、軍事?警察的実力で奪いとり保持したものが勝ちということである。このように近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした「法理」なるものが、現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている。この「法理」を、封建時代の中国の王朝の領土に適用して、その合法性の有無を論ずること自体が、歴史を無視した、現代帝国主義の横暴である。
ヨーロッパ諸国のいわゆる領土先占の「法理」でも、十六、七世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、釣魚諸島は、中国領以外の何ものでもない。なぜなら、ここを発見したことが確実に証明されるのは、中国人の発見であり、その発見した土地に、中国名がつけられ、その名は、中国の公的記録である冊封使の使録にくり返し記載されているから。
しかも、その使録の釣魚諸島を記載している部分を、琉球王国の非中国派の宰相向象賢も、その王国の年代記に引用し、承認している。日本の近代民族主義の先駆者林子平も、承認している。そしてその子平の本を西洋の東洋学者も重視している。つまり国際的にも中国領であることが確認されている。十六世紀ないし十八世紀に中国領であったものに、二十世紀の帝国主義の「国際法理」なるものを適用して、その要件をみたしていないという理由で、あらためてこれを無主地とすることが、どうしてゆるされよう。
かりに、「先占は実効的でなければならない」という現代帝国主義の「法理」を釣魚諸島に適用するとしても、この小さな無人島に行政機関をもうけるなどということは、明?清の時代には不可能であり無用でもあった。現代の先占についても、横田は次のようにのべている。
「先占される土地の状態によっては、この原則(実効的支配の原則--井上)をそのまま適用することができないこと、その必要がないこともある。たとえば無人島のような場合で、行政機関をもうけ警察力や兵力を置くことは、実際的に必要がない。住むことができないような場合には、それを置くこともできない。」
明?清時代の釣魚諸島は、まさにこのような、人が定住することもできない無人の小島であった。だから、そこに現代的な「実効的支配」の痕跡を見出そうとしても、そんなものはありえないことは自明である。横田によれば「このような場合には、附近にある陸地や島に、行政機関や警察力を置いて、無人島が海賊の巣にならないよう、ときどき見廻って、行政的な取締りを行ない、必要があれば、相当な時間のうちに、軍艦や航空機を派遣できるようにしておけば、それで十分である。」
これはもちろん現代において可能な処置である。「軍艦や航空機」も、レーダーも無線電信機もない昔のことではない。しかも「人の住むことのできないような島」が、「海賊の巣」になることもありえないから、ここを「ときどき見廻る」必要もない。とすれば、いったい明?清の中国人は、釣魚諸島をどうすれば、現代日本の帝国主義政府やその密接な協力者日本共産党などを満足させる「実効的支配の痕跡」を残すことができよう? 明?清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」
しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。これはつまり横田のいう「附近の島や陸地に行政機関や警察力を置いて……」ということの、明代版にほかならない。
こういったからとて私は、明?清の中国政府や中国人が、現代帝国主義の「国際法理」にかなうよう、釣魚島の「先占」をしていたなどと説明する必要はみとめない。彼らは、彼らの死後数百年たち、二十世紀になって、「先占の法理」などで彼らの領土に文句をつけられようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。ただ、彼らがここを彼らの領土であると確認していたればこそ、現代帝国主義の先占論をもってしても、ここが中国領であったという歴史的事実を否定できない証拠が残っているということを、明らかにしたまでのことである。
七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。
『地学雑誌』の第一二輯第一四〇~一四一巻(一九〇〇年八~九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。
(註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。
県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。
「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照--井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」
ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。
さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン?クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。
また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。
牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。
もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン?クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン--ヨコン(Yokon)?ユクン(Yukun)?イーグン(Yigun)は同じ語であろう--といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。
何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。
現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。
那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。
この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。
黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。
釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚?尖頭?黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。
ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。
『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する-巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。
要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。
すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。
(註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。
趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼?赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾?赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。
また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。
いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。
次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。
これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。
『地学雑誌』の第一二輯第一四〇~一四一巻(一九〇〇年八~九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「

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